AIを使うと人はバカになるのか?|広島のホームページ制作会社が解説するこれからのAIの活用法
「AIを使うと、人は考えなくなる」「AIに頼っていると、人間はバカになる」「そのうち仕事を奪われる」
そんな言葉をあちこちで目にし、耳にします。
けれど、私はこの話を見るたび、聞くたびに、どこか強い違和感を覚えます。本当に、AIを使ったから人はバカになるのでしょうか?
思い返せば、電卓が普及した時も、カーナビが登場した時も、スマホで検索するのが当たり前になった時も、まったく同じことが言われていました。
「暗算ができなくなる」「道を覚えなくなる」「情報を受動的に消費するようになる」・・・。
たしかに、記憶したり手作業で計算したりする機会は減りました。ですが、それはただ「道具が進化した」というだけの話です。道具によって手作業の手間が省かれたことと、「人が思考を放棄した」こととは、まったく別の問題のはずです。
だから私はこう思うのです。
AIを使うからバカになるのではない。
「自分自身の問い」を持たなくなった人が、バカになるのだ、と。
私も日々、文章の作成や思考の整理でAIと向き合っています。試すつもりで文章を書かせてみることもよくあります。
けれど、AIから出力された文章をそのまま使ったことなんて、ただの一度もありません。
画面に表示されたテキストを眺めながら、私はいつも心の中で呟いています。
「うーん、言葉は綺麗だけど、どこか私らしくないな」
「ロジックは通っているけれど、行間にある感情のニュアンスが飛んでいる」
「言いたいことは分かる。でも、私が伝えたい本質はそこじゃない」
そうやって修正を指示し、何度も言葉をやり取りしていきます。
そして、このプロセスの中でいつも面白さを感じる瞬間があります。
それは、AIに問い返しているつもりが、いつの間にか「自分自身」に問い返しているという事実です。
なぜ、私はこの表現に引っかかったのだろう?
なぜ、この言葉では納得がいかないのか?
そもそも、自分はクライアントや読者に、本当は何を伝えたかったのか?
AIが吐き出した「そこそこ正解っぽい文章」を突きつけられることで、かえって自分の頭の中にある漠然とした違和感が炙り出されます。そこを粘り強く掘り下げていくと、最初はぼんやりしていた自分の意志や思想が、少しずつくっきりと輪郭を持ち始めるのです。
私はこれを、AIの「利用」と「活用」の違いだと思っています。
利用する人はAIから出てきた「答え」をそのまま受け取って終わる。
活用する人はAIから出てきた「答え」を台座にして、さらに思考を深める。
「AIは、その人の「問い」の質を映し出す鏡です|広島のホームページ制作会社が解説するこれからのAI対策(AEO)」でも少し触れています。
AIがどれだけ優秀になっても、人間に求められるのは「どれだけ多くの知識や答えを持っているか」ではありません。
「どれだけ深く、鋭い問いを立てられるか」だと思うんです。
深い問いを持つ人が使えば、AIは思考を何倍にも加速させる最強の相棒になります。
逆に、問いが浅ければ、返ってくる答えも表面的な「どこかで見たような文章」にしかなりません。
最近は猫も杓子も「プロンプト(指示文)のテクニック」ばかりが話題になります。
もちろんプロンプトも大切だと思いますが、その前にもっと本質的で重要なことがあります。
「自分は何に違和感を抱いているのか」「この課題の根本にあるものは何なのか」
それを自分自身の頭で問い続けることです。テクニックではなく、「問いの持ち方」こそがすべてなのです。
AIは、人間の考える力を奪う恐ろしい道具ではありません。
むしろ、自分自身の思考の浅さや誤魔化し、曖昧さをそのまま突きつけてくれる「鏡」だと思います。
だからこそ、私はAIに「都合のいい答え」を求めてはいません。
AIという鏡との対話を通して、自分自身でも気づいていなかった「真の考え」を引き出したいのです。
どれだけAI時代が進もうと、人間の価値は失われません。 何を面白がり、何に違和感を持ち、何を問うのか。
その人間らしい熱量と「問いを立てる力」は、これから先、間違いなくこれまで以上の価値を持つようになります。
AIを使うからバカになるのではありません。
問いを持つことをやめ、考えることを手放した時、人は静かに思考力を失っていくのだと思います。
1961年生まれ。広島県広島市出身。広島修道大学中退後、リクルート、カーディーラーの採用・教育担当を経て、企業内の体質改善・採用・教育コンサルタント会社として、1991年2月有限会社オフィスCAN(現 株式会社カンドウコーポレーション)を設立。その後思い切った業態転換により、クリエイティブファームとしてのポジションを確立する。
福原 勘二のプロフィール