2006年3月28日(火)00:32
「生きる」ということ
今回のツッチーの死で、色んなことを考える機会になりました。
「生きる」ことは簡単ではない・・・ということを考えさせられた友の死でもありました。
ツッチーは余命いくばくもないことを知っていたそうです。
3月の入院も「奇跡が起こらない限り」というドクターからの言葉の中、癌の末期の人が入る病院に入院しました。余命4ヶ月と言われていたそうです。(^^;
そんな中の入院、結局は4ヶ月はおろか、僅か数日の命でした。
ツッチーはその病院に入院する時、何を想い、何を考えていたのか、今となっては知る術はありません。
でも残り少ない命の中、確実に死に向かうであろう茨の道の中、ツッチーは多くのモノをメンバーに残そうとしていたのだと思います。
生き方かもしれません。
生き様かもしれません。
死に様かもしれません。
でも彼が本気で愛したメンバーの心の中には、「生きる」ということがしっかりと心に留まっていると思っていますし、思いたいです。
ツッチーが残したモノ、争いを好まないツッチーが残したかったモノは、もしかしたら闘う姿勢かもしれません。
そう、自分自身と闘う姿勢です。
ツッチーこそが自分自身と闘い続けていたワケですしね。
盛大なという言葉が合うのかどうか分かりませんが、多くの人が義理ではなく、心の底からツッチーの死を悼む想いで集まっていたそうです。入りきれないほどの人、人、人・・・。
彼が生きた生き様、そして真摯に死に向かう死に様が偲ばれます。
自分のお葬式をイメージします。
ツッチーほど多くの人が悲しんでくれるような、人に影響を与える人間で居れているか・・・。
答えはまだ「No」です。残念ですが、まだまだツッチーの域には達していません。(^^;
となれば答えは簡単。
もっともっと、今の何倍も、色んな人に影響を与え、色んな人に本気で接し、色んな人に愛を持って触れ合い、色んな人に本当の意味での優しさを持って、「生きる」ということに対峙していけばいい。
一つの目標が出来ました。(^^)
ツッチーのように多くの人から本気で悲しまれる、「本当に惜しい人を亡くした」と思ってもらえるような、生き方をこれからしていきたいと心に決めました。
決して彼の死を、彼の教えを無駄にしたくない。
彼が生きた証として、ボクもツッチーを追い掛けていきたいです。
死に向かって・・・はちょっとごめんですが、それ以外、ツッチーを目標にしていきます。
それが福原勘二の「生きる」ということに他なりません。
めいっぱい仕事もプライベートも楽しみます。
めいっぱい美味しいモノを食べます。(笑)
めいっぱい愛を人に対して注ぎます。
「愚か者は借金を残し、凡人は悔いを残し、偉人は人を残す」
借金は別として、悔いの残る人生はまっぴらごめんです。
そんな人生、ツッチーに恥ずかしくて顔向けできません。
残すは「人」。
やっぱりボクには「人」なんですね。(^^)
モノ創りと人創り、これがボクのエッヂのプロデュースの在り方です。
ボクの「生きる」ということは、死ぬまで「人」と関わっていくということ以外ありません。
ツッチー見てて、ちゃんと天国から見ててね。(^^)
自分の「生きる」を全うして、その時にまた逢おうぜぃ。でももうちょっと時間はくれよ。
今でもすぐ涙はこぼれていまうけど、涙が完全に乾かなくて、でもそれさえもいいじゃん。
また明日からガンガンやるよ。
ツッチーの笑顔は出せないかもしれんいけど、口角を上げて笑ってたいな。
ツッチー、色んな気付きや思い出をありがとう。(^^)
あなたに出逢えてほんっというに良かった。
「福原勘二の生きるということ」をシッカりと胸に刻み込んでてね。
辛い、本当に辛い死だっだけど、「生きる」ということのヒントもいっぱい貰っちゃったよ。
ありがとう。ただただありがとう。もう一杯、ワンカップでいいから、もう一杯飲みたかったな。
安らかにお眠りください。